「主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」」(創世記3:9)
子どもの頃、どういうわけか我が家にはライフル銃がありました。もちろんおもちゃですが、ちゃんと木の銃床で重みがありました。マッチ箱なんかを的にして射的で遊んだものです。
そのライフル銃には的を狙うための照門と照星が付いています。照門というのは銃身に立っている目印で、照星は銃口の上に付いている目印です。この二つの目印が合わさった延長線上に的があれば、玉はその方向に飛んでいくわけです。ところが、照準を合わせるのに片目をつぶってしまうので、右目と左目のこの僅かな距離が玉の行方を左右するのです。その上、的までの距離や、室内で遊ぶ場合にはあんまり関係ないですが風の強さや向きも影響します。例えば距離が遠ければ弾は下に落ちてしまうわけで、発射する時にその分を考慮に入れて的よりも上を狙うとか、様々な工夫が必要でした。子どもながらけっこう奥深いあそびだったなぁと今思えばそう感じます。そうやって遊んでいた男の子が、成長して牧師になって曲がりなりにも「反戦」を訴えているのは、いったいどういう風の吹き回しでしょう。
射的でも、それからアーチェリーや弓道などでも、おそらく弾や弓矢の自然落下分や風の影響は必ず考慮されるのだと思います。そのさじ加減に腕の良し悪しが明らかに現れるのかもしれません。でも、共通しているのは弓だとか弾だとかは必ず逸れるものだという理解です。重力による自然落下であれ風による左右へのブレであれ、必ず逸れる。
創世記2章から3章へ続く人の創造と堕落の物語は、幾つもの切り口で語られるとても豊かな示唆に富む物語です。人間の罪、特にキリスト教で言うところの「原罪」について書かれてあるわけですから、示唆に富む物語でないと却って困ったことになってしまいます。
その豊かな物語の中から今日注目したいのは、神がアダムの名前を呼んでいるという箇所です。創世記に依れば「アダム」とは「アダマー」つまり「土」からつくられたという事実を表す、言ってみれば記号のようなものです。でも後に、このアダムが、神がつくられたあらゆる獣、空の鳥に名前を付けることを神ご自身が許していますから、彼が神から「アダム」と呼ばれるのはもはや単なる記号ではなくて、やはり固有の名前だったのだと思います。その固有の名前を神は呼ぶのです。
一方、蛇に唆されアダムを神にそむく存在に決定づけたのは「イシャー」でした。この時点ではまだ「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と呼ばれる存在で、名前を持ってはいませんでした。このイシャーに固有名詞が付けられるのは、二人が神からその罪を暴かれたその後。ほかの動物と同じようにアダムが名付けたのでした。名前というたったひとつの事柄から、神とアダムの関係、イシュとイシャーの関係、そして決定的な原罪を背負って以後の男と女の関係が見えてきます。残念ながら人と人との関係がこじれたりねじれたりしたのは、決定的な原罪を背負って以後のことです。ということは、統一協会が説く「原罪とは性的な関係」という言説にはまるで根拠などなく、でたらめだとわかります。いちじくの葉っぱを腰に付けて隠したことこそが原罪がセックスに関わる根拠だと彼らは言うわけです。だからその原罪から復帰するために、エバはアダムに仕えなければならない。女は男に尽くさなければならない。エバ国家である日本はアダム国家である韓国に霊感商法に乗っかって貢がなければならないと教えていますよね。
しかし創世記の語る「原罪」とは、関係性を破壊することだった。神と人、人と人との関係性を破壊し、支配・被支配の一方的な関係に変質させることだったのだと言って良いのではないでしょうか。ところがそういった支配・被支配の一方的な関係をこそ「秩序」だという人たちがいる。困ったモノです。仮にそれが秩序だとするなら、そんな秩序は原罪とその結果としての堕落の故に破壊された関係性そのものなのであって、神が天地創造の始めになさった秩序とはまるで違います。光と闇とを分け、混沌に秩序づけをなさったのが神の創造でした。それとは全く無縁、別物です。そうではなく罪を犯す以外にないわたし自身を単に正当化する理論として「秩序」だと言って誤魔化す。男と女が支配・被支配の関係にあるのは神がつくった秩序だ、みたいなことを平気で言う。恥の上塗りです。
わたしたちは残念ながら、根本的な性質として神にさえ平気で逆らう、神の命じられたことから簡単に逸れてゆく、そしてそれ自体を「知恵」だと嘯く、そういう原罪を持っているのです。そして神は、創り主である神ご自身に平気で逆らう人間を滅ぼしつくす代わりに、忍耐をもって待っておられる。猶予としていのちを与えてくださっているのです。「あなたのいのちある内に、現実の世界を神の国にしなさい」という使命まで与えて。わたしたちは、放っておけばすぐに簡単に逸れてゆく暴力的な自分を抱えながら、それでもなお光に向かって歩もうとして藻掻いているのかも知れません。
その原罪の故にわたしたちに宿命付けられたのがいのちの終わり、死です。今日はこの地上での命を終えた人たちと共に神さまを礼拝しています。彼らは彼らのいのちとその終わりを通してわたしたちに教えているのです。わたしたちには地上で使命があるということを。それを神が望んでおられるということを。そしてそのために命を使い切った者たちには永遠の安らぎが待っているということを。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしはいとも簡単にあなたを裏切り、あなたの期待から逸れて行く者です。自分で自分を立て直すことなど永久に不可能です。それでもしかしあなたは見捨てないのだ、ということをわたしたちに示すために、あなたは主イエスを御使わしくださいました。わたしたちはこともあろうにその主を十字架で殺してあなたの御心に敵対しています。そこまで罪にそれきったわたしをしかし、神さまあなたは「どこにいるのか」と探し出し、使命を与え、「生きよ」とお命じになるのですか。どうぞあなたのその赦しのわざを信じて歩む者へと変えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。